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昭和の食べ物

昔トーフ?

最近、またブームになっているようだけど「引き売り」という形態の商いが見直されているみたいだ。

昭和の風物をレトロチックに楽しもうというのか、それとも本当になくしてはいけない文化なのか分からないけどとにかくまあテレビでもよく取り上げられる。

さすがに、天秤棒をかついだ人は見かけないがリヤカーを引いたり自転車での引き売りが多いようだ。

中には自動車による移動販売店もあるけど、エコロジー的観点からは人力に勝る物はないと思うけどなあ。

さて、豆腐も昔は引き売り物の代表であった。

下町に響きわたるラッパの音が懐かしく思い出される人も多いだろう。

現在の製造法では味わえない「濃い味のご当地トーフ」が地方色を誇りに各地で製造販売されていた。

余談だが、ウチの親戚に「豆腐のおばちゃん」と呼ばれている人がいる。

彼女は若いころからコロコロと太っていたのだが、それは豆腐が大好きだったからである。

とにかく豆腐が好きでしょうゆもかけずに毎日ガツガツと食べていたという噂であった。

「良質の植物性タンパク質が得られることで有名」ということを抜きにしても当時の豆腐は濃い大豆の味がとてもおいしかったのだろう。

ちなみに僕も水っぽい豆腐より硬い木綿豆腐の方が好みである。

ただ、その豆腐も大豆を輸入に頼っている現状では今後食られなくなる可能性も出てきた昨今ではある。

貧しかったかもしれないけれど、食糧生産にまい進していた昭和30年ごろは大豆も盛んに作られていたことだろう。

今からでも遅くはない、せめて自前の材料で豆腐くらいは作れるような国で有りたいと思いません?

魚肉ソーセージ

魚肉ソーセージは数奇な運命をたどった日本独自の食べ物である。

魚のすり身を原材料に大正時代から開発されていたかまぼこの一種の「ねり物」なのだが、ソーセージ(本家ドイツでは中身は肉)に似せてある外観が特徴だ。

ビキニ環礁で行われた水爆実験の為「放射能マグロ」と嫌われた風評被害から立ち直るために加工食品化したといわれる。

学校給食にも取り入れられて生産高はピークに達した。

昭和30年代は「子供のおやつ」として、また「酒のつまみ」として大々的に売れるようになっていた。

ところが昭和49年魚肉ソーセージに使われていた食品添加物が癌を引き起こすと問題になった上に漁業権200海里問題で生産高は急落した。

全家庭に冷蔵庫がゆきわたり低温輸送技術も向上。

食肉および食肉加工品がどんどん食卓へと並ぶようになったこともあってもはや食肉代用品として価値が見出せなくなった魚肉ソーセージはさらに生産量を減らしていった。

しかし、その後消滅するかに見えた魚肉ソーセージは畜肉ソーセージより低カロリー・低脂肪・高タンパクで、健康指向の風潮に改めて見直されるようになった。

また、BSE鳥インフルエンザなど食肉の安全性が失墜したことも、魚肉ソーセージが再びクローズアップされる要因になった。

それまでの凋落から一転して人気が急上昇し、メーカーは突然のフル生産体制をとるなど、かなり当惑したらしい。

かつては、代用品としての後ろめたさからか「メーカー名ソーセージ」と「魚肉」という言葉を隠すようにしていた時期もあったが、最近の健康指向にのり、むしろ魚肉であることを積極的に表示するようになり、「フィッシュソーセージ」とか「おさかなソーセージ」と表示するようになっているのを見ると波乱万丈の運命を感じるのである。

缶詰の今昔

缶詰

今のシーチキンなどの缶詰が当たり前だと思っている人は、多分「缶切」で缶詰をギコギコしたことはないかもね。

 昭和30年代にかぎらず、平成になるまでは缶きりが必要だったように思う。

今でも外国の缶詰には昔ながらのタイプが多い。

 ・・・・ってことは日本の缶詰、それもシーチキンタイプのものは世界でも稀な缶詰ということか?

プルトップを引っ張るだけで開くし、缶の片側の底面は丸みを帯びた一体成型だし、また、絵柄も缶に直接印刷されているし・・・

気づかないうちに日本の缶詰はハイテク缶詰に進化していたのである。

どおりで、プルトップオープンの製造法を考えた金型屋が億万長者になったとか噂で聞いた気がする。

昔の缶詰は両方のフタがあって、絵は紙の帯に印刷されて缶に巻き付けていた。

上下の直径が同じだったので、スタッキング(積み重ね)もしにくかった。

今のものは3缶も5缶も重ねて結束して売ってるよね。

こりゃまんまと缶詰メーカーの策略にのってしまったみたいだ。

ろくの記憶に一番残っているのは「リリー印のパイナップル缶詰」だったりする。

缶切でギコギコ開けるのは楽しいひと時だったよ。

小学校で配布していた肝油

肝油

肝油とは、サメクジラタラの肝臓から抽出した脂分でなぜか小学校で薦めていたのでイラストの缶を手にした人も多いだろう。

現在の河合製薬が独特の製造法で錠剤化に成功したのが、なんと明治時代。

本来ならば液体のまま服用するのだが、ドロップとして甘みをつけたことから大ヒットし、肝油=ドロップのイメージが定着した。

第二次大戦後には、学校給食などの 栄養補助食品としてかなり全国的に推奨された。

今で言うビタミンサプリメントのはしりとも言えるが、当時「栄養補助食品」なんていう意識は希薄でおやつ、もしくはデザートの感覚で食べていたなぁ。(実際食後に飲まされていた)

表面が砂糖の結晶みたいなもので覆われていたのでザラザラした舌触りで、例のマーブルチョコの糖衣とはまた違うものであった。

肝油が推奨された背景には戦後の食糧難・栄養不足の改善で骨や歯の発育に必要なビタミンDを摂取すること(くる病の予防)、また鳥目(暗くなると見えにくくなる病気)の予防にも効くとされたかららしい。 

現在では本家の河合製薬のドロップは、魚の油から製造しているのではなくビタミン類を混ぜて製造されているようだ。

今はサプリメントで栄養補助するという考え方が浸透しているので多くのサプリメーカーから肝油のような製品が発売されている。

今学校現場では「カワイの肝油」以外のものが出回っているのだろうか?

河合製薬以外でも、ドロップ以外にも深海鮫の肝油カプセルなど、多くの会社から多様な製品が供給されている。

ろくは甘くてゼリーみたいな食感の肝油をおやつ代わりにバクバク食っていたよ。

マーブルチョコ大人気

マーブルチョコ

昭和20年代はキャラメルが全盛で大の大人のカバンにも入っていた。

それに対して昭和30年代はチョコレート全盛の時代だったなぁ。

35年頃からココアバターなどの原材料が輸入自由化されたことが生産量アップの主な理由だといわれている。

各社競って次々に新製品を発売していった。

イラストの明治「マーブルチョコ」を筆頭に、森永は『フィンガーチョコ』、グリコは『アーモンドチョコ』、不二家は『ペンシルチョコ・パラソルチョコ』など現代でも買うことのできるロングセラーは、驚くべきことにみんな昭和30年代生まれなのです。

ろくもこのマーブルチョコには激しく思い入れがある。

なんてったってマーブルチョコのカラフルさが他にはない特徴だった。

ホワイトチョコはまだなく、茶色のチョコレートばかりの中でこの7色は光っていた。

また、この糖衣で包むという画期的製法によってチョコが溶けにくくなったのも少年たちに受けた。

ズボンのポケットにマーブルチョコを忍ばせて野山を駆け巡った御仁も多かったのでは?

また、独特の円筒形の容器も受けた原因だ。

食べ終わった後も小物入れとして活用できたし、紙工作の素材としてもよく使われた。

夏休みの自由研究や工作にはかなりの率でこの円筒形のマーブルチョコが使われていたのを覚えている人も多いだろう。

偉大なチキンラーメン

カップヌードルも大ヒットしたが、インスタントラーメンを不動のものにしたのがチキンラーメンである。

昭和33年発売開始で一時期関西地区以外からは撤退したので「関西土産」として珍重された時期もある。

似た製造方法のものは既に出回っていたが、販売数的に見て大成功したのはチキンラーメンが初めて、という意味で「魔法のラーメン」といわれたりもした。

ちなみにインスタントラーメン第一号は松田産業有限会社の「味付中華めん」なんだそうで、こちらはその後ベビースターラーメンとして子供のおやつとして愛された。

チキンラーメンが発売されたことで、それまで一般的だった「支那ソバ」や「中華ソバ」にかわって「ラーメン」という呼び方が日本中に普及した。

なんといってもスープや薬味の小袋を開けたり、「味ベース」などという小賢しいものが一切不要で「お湯を注ぐだけ」というシンプルさがうけた。

「さらに鍋で1分間煮込むとさらに美味しい」と袋に書いてあったので試した人も多かったろう。

しかしろくはやっぱり「ドンブリにお湯を注いでフタ3分」のほうが歯ごたえがプリプリして美味しく感じられたなぁ。

その後カップヌードル的「スチロール容器入り」のチキンラーメンどんぶり(略してチキドン)が発売になったりしたが、今でも進化を続けている。

名前のとおりチキンにマッチするものとして卵を具としてのせるべく、麺の形状をへこませたものが2003年に登場した。

仲間幸恵がCMしていたので覚えてる人もいるよね。

この卵ポケットがまた受けてチキンラーメンは今やインスタントラーメンの王様といわれるようになった・・・と個人的には思っている。

ポン菓子を見つけました

ポン菓子

近くの神社に初詣に行ってきました。

出店がいっぱい並んでいてにぎやかです。

その中に懐かしい「ポン菓子」がありました。

最近見かけなかったので嬉しくなり、思わず即買いしてしまいました。

「今でもあるんですね~」とオヤジさんに話しかけたら色々教えてくれました。

昭和30年代にはもうこの機械はあって、ろくもよく近くの神社で母に買ってもらいました。

お菓子としてはもっぱら米を材料に使うということですが、いろいろな穀物や豆を炒るのに農家も使うしイベントにも引っ張りダコらしく今でも新品の機械が製造されているんだって。

一式35万円もするこの機械を中には趣味で楽しむために買う人もいるらしい。

ポン菓子によっぽど愛着があるんだね。

「ボンッッ!!!」という爆発も見所だったし、ほんのり甘い米菓子は確かにうまかった。

40年前にタイムスリップした感じで懐かしかったです。

機械もローテク単純で武骨な物だけど、いいもの・愛されるものはやっぱりロングセラーなんだよね。

チロルチョコ

チロルチョコ

なんと懐かしいチロルチョコを発見
昭和四十年代中頃の定番のおやつだったのではないでしょうか?

十円あったらチロルチョコ!

チロルは十円!
のキャッチフレーズがテレビで流れていたと思います。

当時とは少しパッケージが変わっているような気がしますが
あの懐かしいチロルチョコに出会えるとは感激です。

昭和四十年代中頃の小学生の一日のお小遣いは三十円から
五十円程度ではなかったかと記憶しています。

その頃はちょっとしたお菓子が五円位から買えたと思います、
フーセンガムとか紐つきの三角飴なんかがあったような?

なんせ消費税なんて無かったですから、
子供たちは十円玉を握り締めて「駄菓子屋さん」へ日参していました。

鹿児島では「駄菓子屋」ではなく、確か「一銭店(いっせんみせ)」
と呼んでいました。

昔の駄菓子屋さんは子供の社交場みたいなところでした、
なんせお菓子にちょっとしたオモチャみたいなものまでありましたから。
ガムに飴、ラムネにアイス、ビー球におはじきにete・・・

近所のスーパーで見つけたチロルチョコ
三十数円だったと思います、四十年前に十円でしたので
価格的には超優等生かもしれません。

焚き火で焼くサツマイモ

やきいも

今では軽トラックで騒々しく売りにくる焼き芋も、昭和三十年代には本当に落ち葉焚きのときに焼いたものです。

これは枯葉の掃除と食い物の調理を兼ねた実にECOなものでした。

今、街中に落ちているものなんかでヤキイモなどするとダイオキシンなどの化学物質が出てきてとても食えたものではありませんね。

「焚き火だ焚き火だ落ち葉焚きぃ~」の風景はいつの頃からなくなってしまったのでしょうか?

ろくには明確な記憶がありません。

確かに落ち葉で焼いたサツマイモを食べたのですがね・・・・

つらつら考えるに、道路が舗装され始めてから焚き火をしなくなって同時にヤキイモの習慣もなくなったのではないかなぁ。

家の前がまだ未舗装(土むきだし)なら少し地面を掘って芋を入れ、その上で落ち葉焚きも楽しめた。

しかし、道路がコンクリートやアスファルトで覆われると「お金をかけて舗装したものを傷めてはいけない」という心理によって自粛したんだと思います。

大体、焚き火なんかしたらアスファルトは熱で溶けてしまいます。

また、ガスコンロの急速な普及によってコントロールに手間隙のかかる焚き火は敬遠されていったのでしょう。

食べ物の調理に時間がかかっていたのが「マッチでパッと点火できてバルブを閉めればスッと消える」圧倒的な(今の若い衆には「あったりまえじゃんっ!」と笑われそうだけど)便利さは、その後のタイム・イズ・マネーの思想に大きな影響を与えました。

それから数十年・・・今「ゆったりとした時間が持てることこそが贅沢だ。」なんていわれています。

落ち葉焚きで多分1時間以上もかけてヤキイモを焼いていたあの頃が「人間らしい時間を持てた最後の時代」だったのではないかと思えてなりません。

リンゴやバナナは高級品だった

お見舞い

 昭和30年代はリンゴは高価格だったようで、病気で寝込んだときに「すりおろしリンゴ」を薬代わりに食べたものでした。

なので「すりおろしリンゴ」を思い出すと苦しい病気の思い出もよみがえってくるのです。

平成の今、リンゴを「すりおろす」ことすら知らない人もいるのではないでしょうか?

すりおろしたリンゴは茶色くお世辞にも美味しそうには見えませんでしたね。

でも熱でモーローとしている意識の中で、冷たく酸味のある「すりおろしリンゴ」は美味かった・・・

当時は病気になったとき、すぐに薬に頼るのではなく食べ物で治すという意識が強かったように思います。

「病気のときにしか卵は食べられなかった。」とか「入院したときにしかバナナは食べられなかった。」という話をよく聞きます。

そういえば、「入院お見舞い」にはパイナップルやリンゴ・バナナなどの「フルーツの盛り合わせ」がスタンダードだったと記憶しています。

そのせいか、大きな総合病院の近所には必ず果物店があり、白く塗った籐カゴをに果物を盛り合わせる注文に応じていました。

なんか「病気に負けないで、異国のフルーツでも食べて元気出してねっ!」という実に分かりやすい励ましですね。

病気にはなりたくないですが、籐カゴに盛り合わせられた芸術的な果物は不思議な魅力がありましたね。

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