我ら昭和三十年代生まれ
地球温暖化なんてなかったよ
- 2008-08-16 (土)
- 未分類
つらつら回想してみると、私が生きた「このたった40数年」の間にもどれだけダイナミックな世界の動きがあっただろう。
昭和30年代の高度経済成長時代に、現在いわれてるように「地球温暖化」なんて概念は生まれていなかった。
昭和40年代にようやく大気汚染とか工場排水による公害問題(今でいう環境問題)に気づくわけである。
4億年を超えるという地球の成り立ちからすると30年や40年なんて、ほんの一瞬だよね。
フロンガスが地球温暖化の犯人だとか、車の排気ガスが犯人だとかいろいろ言われる。
ろくから見れば爆発炎上の戦争こそが地球温暖化の元凶に思えて仕方がない。
今日は終戦記念日だ。
「2度と戦争を起こさない・・・平和の祈りを捧げます」などと言っている間にも内戦や紛争で罪もない人たちが飢え、殺されているのだ
昭和30年代と言うのは太平洋戦争終結後10年という月が流れ、少し戦争の反省を忘れかけている時代だったと思う。
「天皇陛下万歳」という思想は禁じられたが、代わりに「経済復興万歳」と国民あげて金満日本への道を爆進することになったのである。
あれから40数年後、経済大国のピークを過ぎ食糧自給も満足にできない少子化の日本をだれが予想できただろう・・・
誰が「各家庭から省エネに取り組んで地球を守ろう」などという運動へ意識が世界中に広まるなんて想像しただろう・・・
今や地球に住む全人類は閉ざされた一つの空間で限られた資源を消費しながら生きていくしか方法がないのである。
それが一般庶民には広く認識されていると言うのにまだ巨大な火炎のふきあがる戦争をやるのは「愚かものもここに極まり」ではないか。
こんな馬鹿な人間をたぶん神様は絶対許さないと思う。
人間は地球にとっての癌細胞みたいなものなのか・・・
いい加減、謙虚ににつつましく生きないと、天誅が下りますぞっ
昭和の夏
- 2008-07-12 (土)
- 昭和の風景
今中年のおじさんが思い出す「昭和の夏の風景」といえば
まず縁側そしてアサガオ・井戸・スイカ・すだれ・風鈴といったところだろうか
他にも、かき氷・トウモロコシ・夜店・扇風機・そうめん・ひまわり などなど
いろいろあると思うが、ロクがかってに「ゴールデンコース」として味わいたいものは
これである
アサガオの咲いてる庭に面した縁側で井戸で冷やしたスイカを食べている・・・
風鈴がチリンチリンとなり、遠くからはセミの声が聞こえてくる・・・
室内を振り返ると蚊帳が吊ってあり、中で母親がウチワをあおぎながら赤ちゃんと昼寝をしている・・・
蚊取り線香臭いがかすかに漂ってくる・・・
空を見上げれば力強い入道雲が・・・
・・・・というのが最高なのである。
ああ・・あの日に帰りたい
コカコーラのCM
- 2008-06-19 (木)
- 昭和の飲み物
「スカッとさわやかコカコーラ!」や「コークと呼ぼうコカコーラ」のキャッチフレーズで一世を風靡したのが昭和30年代後半であった。
あの有名な加山雄三のコマーシャルがテレビに流れたのが1967年というからまさに僕が小学生の頃からコカコーラが普及したのである。
ピンキーとキラーズのCMも記憶に残っている。
それまでは炭酸飲料といえばサイダーしかなかったので子供のみならずことなんまでもがコカコーラに飛びついたものだ。
感想としては「おいしいのかマズイのかよくわからんが、何か薬臭いなあ」というのが大方の感想であった。
それもそのはずコカコーラは麻薬のコカインを原料に約養子として開発されたものだからである。
しかし当時のぼくたちはそんなことはとしっちゃーいない・・・
「おいしければそれでいいのだっ」ということで毎日のおやつ、レジャーや行楽の必需品となっていったのである。
ただ何事も反動というものがあって、1970年代には「コーラを飲みすぎると骨がもろくなる」といううわさが広がり、他の飲み物の選択肢が増えたこともあってぼく自身はコーラから離れていった。
ただ今でもコーラの味だけは鮮明に思い出せるので、そういう意味ではほかに比較するものの見当たらないコカコーラ独自の味だったんだなあと思う。
また久しぶりに飲んでみるかなぁ~
現代は幸せか?
- 2008-05-14 (水)
- 昭和の風景
ろくは男の子なので、当時の男の子の姿しか記憶にないのですが夏は上半身はランニングシャツ、下は半ズボン、靴などはかないでぞうりか下駄が一般的でした。
当時の白黒写真を見てもらえばうそでないことが分かります。
衣類にツギのあたっているのも恥ずかしくないぐらい一般的でした。
それにひきかえ最近の子はすごくおしゃれなカッコウになりましたね。
赤ちゃんでさえブランド物の衣類を身に付けています。
少子化でずっと大事大事に育てられるんでしょうね、それは大変結構なことと思います。
ただ、「腕白でもいい・・・たくましく育ってほしい」という某ハム会社のCMに代表されるような「たくましさ」がなくなってしまったのは事実だと思います。
昭和30年代の少年たちは本当に元気だった・・・
日が暮れるまで野山を駆けずり回っていた。
今は社会環境の変化から、公園で遊ぶことさえも危険視されるようになって、子どもたちはおちおち外で遊べなくなってしまいました。
着るものは素敵になって「腹ペコ」の経験すらなくなりましたが、これは幸せと呼べるのでしょうかね?
なんの心配もなく無邪気に子供達が遊べる時代が再び来てほしいと思います。
びいるビール麦酒
- 2008-04-25 (金)
- 昭和の飲み物
さあ、暖かくなってきました。
ゴールデンウイークはもう初夏なんですね。
人間とは現金なもので寒ければ「暖かいほうがいい」といい、暑ければ「冷たい方がいい」というんですね、今も昔も・・・
今まではショーチューのお湯割りなんぞを飲んでいた私も初夏の畑で汗をかいた後は「なんといってもまずビールでなければならなくて・・・
醜いことに作業の半ばからはビールのことしか考えられなくなりまして「はあ、はあ、はあ、ビールの為ならエ~ンヤコ~ラッ!くどくは言わぬびいるをくれぇぇっ」という状態になってしまう訳であります。
共感していただけるオトーサンも多いのではないでしょうかね。
さて、そのビールですが昭和30年代は「お高い飲み物(もしくは酒)であったそうで会社の社員旅行などで「ま、まあまあっ・・・どうぞどうぞ」という宴会にビールが一般的になったのには高度経済成長の後ろ盾があったのですね。
どこかの酒好きの作家の弁に「ロクにアルコールも入ってないくせになんでこんなに高いんだっ」というのもありました。
今では発泡酒やさらに「第3のビール」などというものが発売されて庶民の味方になっていますが、正直「ドイツが羨ましい」と感じている人もいるでしょう。
昭和という「世界でも類まれなる発展をした時代」を経てもビールは中々安くはならず、僕たち庶民は相変わらず焼酎で一日の疲れを癒すのでありました。
銭湯はいいよ
- 2008-04-10 (木)
- 昭和の風景
最近では減少の一途をたどる銭湯だが、昭和30年代にはそりゃあ活況を呈していた。
どんな街にも必ず数軒は「お風呂屋さん」があった。
まだ風呂のない家も多かったし、戦後の薄汚い暮らしから脱却したいという思いと日本人生来の「キレイ好き」から大変な賑わいであった。
また、温泉文化のある自然環境に恵まれていた日本だったことも「入浴好き」を後押ししたと考えられる。
ろくも小さいころはアパート住まいだったので銭湯はよく行ったものだ。
高い天井、富士山の絵、響き渡るかけ湯の音、「カコーン!」という桶の音、よかったねぇ~
もちろん、今でも健康ランドやスーパー銭湯など進化している所もあるにはあるのだが、地方の銭湯はどんどん廃業に追い込まれているのが現実だ。
大規模すぎる、キレイすぎる新種銭湯にはないワビサビのきいたいい雰囲気があるのに残念なことだ。
やはり「年月に磨かれた味わい」は一朝一夕にはかもし出せない。
なので、昔は温泉めぐりに血道をあげていた僕だが、最近は旅先で「昔からある銭湯」めぐりをすることにはまっている。
手押しポンプふまきら
- 2008-04-09 (水)
- 昭和の道具
昭和30年代はまだ下水の整備が不十分だったこともあり、蚊や蝿が多かった。
よく梅雨前にリヤカーにエンジン式の殺虫剤噴霧器が街を巡回し側溝(当地ではミゾッコと言っていた)にもうもうと殺虫剤を噴霧していた。
さて、行政ならそんな機械も所有できるが一般家庭では手押しポンプ式のフマキラー(うちのばあちゃんは「ふまきら」と言っていた)が普及していた。
キーコキーコという音と共に庭や家の周りのガラクタの陰などに撒いていた光景を思い出す。
まあ、言ってみれば大き目の水鉄砲 or 霧吹きみたいなものである。
スプレー缶式の殺虫剤はまだなかったが、考えてみればこの手押しポンプ式の方がフロンによる地球温暖化も引き起こさずに済んだのだから皮肉なものである。
また、スプレー缶の不用意な扱いによる爆発事故も発生しないし、なによりもLPGなど封入ガスもいらないのだ。
省エネが叫ばれている今このメリットは大きい。
おまけに腕の運動にもなるってか?
「人間は楽したがる生き物である」が人力の道具には色々とメリットがあると思うので、殺虫剤業界も再び「手押しポンプ式ふまきら」を復活させてはどうだろうか。
あれはなんと言うのか?
- 2008-04-05 (土)
- 昭和の産業
昭和30年代には木でできた電気製品も数多くあった。
ラジオなんかも巨大で家にあったのは60×30×30センチくらいもあったし箱は木製が当たり前であった。
・・・・で、僕の脳裏にくっきりと残っているのはその裏蓋であった。
あれはなんと言うのか・・・
段ボールじゃないし、ベークライトはもっと固かったようだし・・・・
う~ん呼び名が分からないけれど多分、紙と木のあいのこのような材料があった。
色は茶色で配線を外に出すための穴や放熱の為のスリットなど、結構複雑な形も作れていたものだ。
表面にはプレスのあとがついており、細かな+++模様だったことから推測するに・・
薄い接着剤溶液に浸された材料(紙か木かはわからない)を積層して網にはさんで圧縮する、余分な接着剤溶液は網から流れ出る・・・という感じではなかったか。
ネットで調べてみたが「ダンボール紙の圧縮成型したものだ」という情報と「木の繊維を細かく切り接着剤で固めたもの」という情報があり、ますます紙製なのか木製なのかわからなくなってしまった。
呼称も「ハードボードの一種」かな?というところまでしかわからない。
戦後の禿山状態でどのように原材料を入手したのか?
ひょっとしたらそんな時期だったからこそ究極のリサイクルで古紙を「木の代用品」としたのか・・・
当時のいきさつをご存知の方、どなたか教えてくれませんかね~。 (^_^)
今の精巧なプラスチック電化製品からは想像もできないが、われら昭和30年代生まれはあの紙のような木のような裏蓋になにがしかの郷愁を持っているのである。
昔トーフ?
- 2008-04-04 (金)
- 昭和の食べ物
最近、またブームになっているようだけど「引き売り」という形態の商いが見直されているみたいだ。
昭和の風物をレトロチックに楽しもうというのか、それとも本当になくしてはいけない文化なのか分からないけどとにかくまあテレビでもよく取り上げられる。
さすがに、天秤棒をかついだ人は見かけないがリヤカーを引いたり自転車での引き売りが多いようだ。
中には自動車による移動販売店もあるけど、エコロジー的観点からは人力に勝る物はないと思うけどなあ。
さて、豆腐も昔は引き売り物の代表であった。
下町に響きわたるラッパの音が懐かしく思い出される人も多いだろう。
現在の製造法では味わえない「濃い味のご当地トーフ」が地方色を誇りに各地で製造販売されていた。
余談だが、ウチの親戚に「豆腐のおばちゃん」と呼ばれている人がいる。
彼女は若いころからコロコロと太っていたのだが、それは豆腐が大好きだったからである。
とにかく豆腐が好きでしょうゆもかけずに毎日ガツガツと食べていたという噂であった。
「良質の植物性タンパク質が得られることで有名」ということを抜きにしても当時の豆腐は濃い大豆の味がとてもおいしかったのだろう。
ちなみに僕も水っぽい豆腐より硬い木綿豆腐の方が好みである。
ただ、その豆腐も大豆を輸入に頼っている現状では今後食られなくなる可能性も出てきた昨今ではある。
貧しかったかもしれないけれど、食糧生産にまい進していた昭和30年ごろは大豆も盛んに作られていたことだろう。
今からでも遅くはない、せめて自前の材料で豆腐くらいは作れるような国で有りたいと思いません?
思い出の「新日本紀行」
- 2008-03-18 (火)
- 未分類
ろくにとって昭和を代表するテレビ番組としてはずせないのが昭和38年から53年まで放映されたNHKの「新日本紀行」だ。
富田勲作曲のテーマ音楽も実によくマッチしていて、まだガキンチョだった僕でも「ああ、日本の田舎はこの様な風景・風習なのだなあ~。」とわびさびを感じていたものだ。
今でも脳裏に焼きついている映像がある。
場所は多分北国の日本海側(ろくは勝手に北海道の積丹半島だと思い込んでいるが)・・・
冬の荒れた海沿いの漁村の風景で、もちろん雪もつもっている。
行き止まりの集落であるのか、道路が海に向かって終わっている。
ウミネコだかの白い鳥が群れている。
なんという寂しげな、そして空腹感を感じる風景だろう。(人間寒さを感じただけで腹が減るのだ)
そういう風景の中をほっかむり姿の老人がよたよたと歩いていく。
当時白黒だった「新日本紀行」の映像は鬼気迫るものがあったと思う。
こぼれ話だが、当時ビデオテープは大変高価だったので消去して使いまわすことが殆どであったといわれている。
でもさすが天下のNHKはこの番組だけはオリジナルテープを残していた。
日本で最初の紀行番組はこうしてその当時を伝える重要な役割を果たしたのだ。
できることなら、ろくの脳裏に焼きついたあの風景と再会したいものだ。